『恋愛は人生の秘鑰なり・・・』

孤蝶の夢

恋愛至上主義と芸術至上主義、そして『内部生命論』より
日本近代文学成立に絶大な影響を与えつつ25歳ではかな
くも自殺した天才的な詩人〈北村透谷〉。
彼の短い生涯は、まさに戦いの連続であった。たび重なる
気鬱病の再発、民権運動への傾注と離脱、自由韻律詩の発
表、自由恋愛の提唱と藤村との出会い、キリスト教入信、
日本初の平和運動への参加、文芸誌創刊と近代文学確立の
ための闘争…。明治維新以後の、急激な社会変化の最先端を
にない戦った文学者・透谷の清冽な生涯を綴ったモデル小説―。
         作品社刊。装丁者:中島かほる。
         全219ページ・20cm。定価2000円。
 「孤蝶の夢」は、作品社より発売中です



−著者からのメッセージ−







北村透谷に見る明治の恋愛観』

《坂口安吾や空海の悲しみ》
自分があまりに肉欲的であることが悲しい…と告白した坂口安吾の
小説を読み、若い頃衝撃を受けた思い出がある。その感慨を、今、
司馬遼太郎が書き残した『空海の風景』の中に見い出すことができる。
「かれが常人よりもさらに巨大な肉欲のもちぬしとして生まれついている
らしいということは、偉大な思想家にしばしばそれが見られるということで、
かすかに想像できる…」という一文である。性的な欲望は誰の心の中にも
あるが、人一倍多くの情欲を抱え、しかもその衝動を押さえようとする時、
人知れない巨大な力が必要とされる。その偏執的な禁欲のエネルギーの
中から物事の本質をめざす内面がはぐくまれる。まさに、北村透谷もその
ような人物であった。彼は島崎藤村らと第一期「文学界」の創設に参加し、
初期浪漫主義運動の理論的指導者として我が国の近代文学に多大な
影響を与えた。透谷の生まれ育った時代背景は、幕末期を経て「明治」へと
年号が改まり文明開化がはじまったものの、相変わらず庶民の娯楽は芝居・
絵双紙が大勢を占めていた。やっと「詩」という文学形態が確立されつつある
中で、七五調の定型を崩し自由韻律詩を発表したのが彼であった。

《生そのものに隠される心理》
「余は実に数多の婦人を苦しめて自ら以て快しとしたる者なり…」
十四歳より遊郭で遊ぶことを覚えた透谷は、その後、民権運動に参加し、
キリスト教入信を契機に日本ではじめて公に行われた平和主義活動に加わり、
さらに戯曲を発表して坪内逍遥を驚愕させたが、それだけではなかった。
どのような人間でも、語りつがれる名誉・名声よりも「生」そのものの軌跡の中に
真理が隠されていることが多い。『恋愛至上主義』…。これこそが北村透谷の
モデル小説を書くにあたっての私のキー・ワードだった。
明治二十年、彼は石坂ミナという女性と恋に陥る。しかし十代前半より性的汚濁
にまみれながら、恋愛とは高貴で純粋で美しく、情欲的であってはならないとする
透谷の中のストイシズムが、彼女との別れを決意させる。

《革新的恋愛論・女性ら支持》
 いったんはミナのもとを去ったものの、その翌年に二人は結ばれる。結婚により、
自ら純粋恋愛の理想を崩してしまった彼は、その苦痛の中から「厭世詩家と女性」
なる論文を世に発表する。〈恋愛は人生の秘鑰なり、恋愛ありて後人生あり…〉
「秘鑰」とは、鍵(=鑰)の意味で、人生の秘密を解く鍵は、恋愛にあることを広く
世に宣言したのである。現代でこそ抵抗なく受け入れられる考え方だが、当時の
社会情勢では、革新的で柔軟な思考であった。
かつて誰も書いたことのない彼の恋愛論は、明治二十五年に発表されるや、若い
女性たちの圧倒的な支持を得て世の中の注目を浴びることとなる。当時はまだ「愛恋」
という言葉が一般的で、やっと「恋愛」なる表現へと移行しつつある時代であった。
しかし透谷の恋愛に対する姿勢はあまりに先鋭的であったために、周囲から孤立する
結果を招いてしまう。その後、普連土女学校の教壇に立ちながら、教え子との関係に
おいて恋愛至上主義を貫こうとする。さらに、自己矛盾から逃れるように明治女学校
へと転任した透谷は、藤村も同じく教え子に恋心を抱いている事実を知った。
相手は一歳年上の、しかも婚約者までいる女生徒だったのである。

《大らかで純朴な文学青年ら》
文学を志す青年たちが貧しくも特権的に生きえた明治という時代は、大らかであった。
今日において師弟間の交際は、ともすると社会問題になりかねないし、まして教え子に
恋心を打ち明けられない辛さから、教職を辞し放浪の旅に出る純朴な心さえ持ち辛い。
恋愛が人生の秘鑰であることに今も昔も変わりはないが、ストイシズムの成り立ちにくい
現在、物事の本質に向かう目は透谷の時代より曇らされているかもしれない…。
                                 (平成8年4年4日・中日新聞)


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